山本慈昭ってどんな人?300人もの人々の父親になった中国残留孤児の父の人生

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山本慈昭

(やまもと じしょう)

 

この方をご存じだろうか?

日本の僧、福士活動家。本名は山本梅雄、長野県の出身だ。彼を有名にしたのは、戦争という激動の歴史の中で、自らの信念のもと、中国残留日本人孤児の肉親捜しを懸命に行い、人生で300人もの人々の再会を実現させた人物。そのため、「中国残留孤児の父」と呼ばれ、語り継がれる人物でもある。

 

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<山本慈昭の波乱万丈人生>

1902年、長野県に生を授かる。その後、8歳の頃に善光寺(長野県)に出家し、比叡山での修行、ホノルルでの延暦寺別院創設を経て、1937年(昭和12年)に阿智村の長岳寺(長野県)の住職となる。

 

実は、この同時期に学校の先生でもあった山本慈昭に人生の転機が訪れる事に。1945年当時、政府は満州(中国東北部)への移住を推し進めていました。そこで、阿智村から満蒙開拓移民の一団「阿智郷開拓団」が送り込まれることに伴い、子供たちの教師役として、当時の国民学校の教員を兼職していた山本が指名され、妻と2人の娘を連れ、教え子である国民学校の生徒たちを引率して満州へ渡る事になる。

 

当初は、1年という予定であった移住も戦争(第二次世界大戦)末期という時代だったため、ソ連軍の侵攻で上京が一変する。そのため、決死の逃避行を余儀なくされ、その末に山本は妻子と引き離され、シベリア抑留(よくりゅう)の身となってしまう。

 

・悲しみの知らせ

1947年、奇跡的にシベリア抑留から1年半後、帰国することができた。しかし、妻子との再開を楽しみにしていた山本を待っていたのは、妻子の死の知らせと、共に満州に渡った阿智郷開拓団215名のうち、帰国したものは山本を含め13人。さらに、51人いた教え子で生存していたのは、たったの6人という残酷な知らせ。

 

そんな悲しみの中、山本はせめて仲間たちの遺骨を拾うべく1964年(昭和39年)に訪中。しかし、遺骨収集は何故か認められなかった。これには、同年の中国の核実験を内閣総理大臣就任直後の佐藤栄作が批判し、さらに日本共産党の大会に参加を望んだ北京市長・彭真を日本側が入国拒否したことで、中国側から見れば日本の新内閣は中国を敵視しているも同然といった事情があったとされている。

(一部ウィキペディア引用)

 

この行動を何らかの形で知った中国に残留している日本人から、「日本にいる肉親を探して欲しい。」という手紙が届く。そこで、まだ、生存している中国残留孤児の存在を知り、山本は、彼らと肉親を引き合わせることを決意します。

 

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これがキッカケとなり「中国残留孤児の父」という名が後に生まれる。山本は、国に調査依頼をするものの、良い返事は得られなかったといいます。その後、阿智郷開拓団の生存者の1人が、開拓団の8割が亡くなったのは嘘だと告白。これには、子供達の命を救うために、中国人に子供を引き渡し、帰国した仲間同士で、「全員死んだ」と嘘をついた。という衝撃的なものだった。

 

・娘との再会

実は山本さんは長女との再会を果たしている。長女・啓江(ひろえ)さんは、上記でも記しているが中国人に引き渡されていた。その後、中国人養父母に助けられており、結婚し5人の子供までもうけていた。そして、長い年月が経ったが、ようやく日本に帰国でき、36年ぶりに父と再会を果たしている。

 

 

・日中友好手をつなぐ会の設立

日中国交正常化を機に、山本さんの元に満州からの引き揚げ者や関係者が集い「日中友好手をつなぐ会」が結成され、山本さんを会長とし、中国の孤児たちの手紙のやりとりや、日本の肉親たちの訪問などの活動が開始された。

 

山本慈昭は88歳で亡くなりますが、このような功績を未来へ残すため、後に、「山本慈昭記念館」が設立されますが、現在は、「満蒙開拓平和記念館」と統合されています。

 

 

<映画になっている!>

山本さんの波乱万丈な人生は、映画「望郷の鐘」で映像化されているようです。一体どれだけ凄まじい人生を歩んだのだろう・・・。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。
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